2008年03月03日

連載小説『東京迷宮〜もう誰も愛せない。君以外誰も…〜』

『邂逅(かいこう)の章』
第3回 ピアノマン


「…僕に会いたいって人がいる?」
3月。奈月さんの家にお世話になって2ヶ月が経っていた。身体のケガは歩ける程に回復したが、記憶は一向に戻らない。自分の名前すら思い出せていない僕に、会いたがる人がいる、と奈月さんは言った。彼女の家に来てから、ほとんど外には出ず、人との接点もないはずなのに。
「…一体誰が…?」
色々な想像を巡らせたが、案外答えは簡単だった。
「今日は。山梨県警、勝沼交番の永井と申します」
そう、奈月さんが連れて来たのは警察。考えてみれば当然の話だ。2ヶ月前、大きな事故を起こして起きながら、その当事者に何の事情聴取もなしとは、そっちの方がおかしな話だ。
「…事故直後は、君もケガがひどく、何かを聞ける状態じゃない。と…なっちゃんに言われてね。君のケガが大分回復した今、遅ればせながら事情聴取に来たはわけだ」
「な…なっちゃん?」
永井という警官は40代くらいの男。奈月さんの恋人というわけではあるまいに、いやに馴れ馴れしい呼び方をしている。
僕が面喰らったような顔をしていると、彼女は笑って
「この勝沼村は人口が少なくて、村の人同士が凄く仲がいいの。特に永井さんとは私が小さい頃から付き合いで、家族みたいなものなの。」
だからなっちゃん、なんて呼ぶわけか。
「それにこの村ではここ数年大きな事故や事件が殆んどなかったの。だから事件に鈍感…って訳じゃないけど、事情聴取までにこれだけの猶予が貰えたの」
だけど…僕はまだ何も話せない。免許証も持っていなかったし、事故った車は(損傷がひどく、もう廃車になったらしいが)ナンバーも壊れて確認できなかったという。僕に言えることは、白里(はくり)という、頭の中に微かに残る自分の名前らしき言葉だけだ。

警官・永井の聴取は1時間程続いたが、彼も苦戦していた。
「やれやれ…名字は分からず、名前?は白里…?身長…178cm…年齢不詳。車事故にも関わらず、免許証は不携帯。ナンバーも不明。乗っていた車種はブルーのランサー。
事故によるショックで記憶喪失に陥っていると見られる…こんなもんか?こんな調書でいいんかな?…全く…ピアノマンみたいな男だな」
「?…ピアノマンて? 」
「2年前、イギリスかどっかの海岸で発見された、記憶喪失の男だよ。何でも、自分の素性は何一つ覚えていないのに、ピアノを弾かせたらプロ並みの腕だったそうだ」
「へぇ…」
「まぁ結局そいつは、ドイツ人で記憶喪失も演技だったらしいがね…」
「!僕が嘘を言っているとでも?」
「そうは言ってないさ。あくまで例えだよ……ここに来てから、外へ出たことは?」
「え…?1回か2回位しかないけど…」
僕が言うと、彼はスッと立ち上がり、
「今日の聴取はこれで終わりだ。俺はこの調書を持って交番に戻る。…一緒に来て、ちょっと外を歩かないか?」
「え?…あぁ、そうですね。じゃあ少し…」
僕は家に奈月さんを残し、永井と二人で外に出た。

…あぁ…実に何週間ぶり位の外出だろうか。外は晴天で、歩く度に感じる風が心地良い。
「こっちへ行こう」
永井は奈月さんの家を出、すぐ横の坂道を降りて行った。…暫く降って行くと、素晴らしい景色が目の前に広がった。
「凄い!…湖だ」
「山中湖さ。…外の景色に触れりゃ、何か思い出すかもしれんだろ?」
確かに…ここ2ヶ月は缶詰めだった僕には、目の前にある澄んだ湖面・独特の風の感触は新鮮な衝撃を与えてくれる。
…少し湖を眺めていると、僕の視界に1艘のボートがやってきた。若い男女のカップルで、男が一生懸命オールを漕いでいる。
「…ボート…か…」
ぼんやり眺めていると、頭の中に何かがせりあがってくる。
『僕も…ある。あれに乗ったことが…ある。』
『誰と…?誰と…?誰…?』
自問自答しているうち、あるシュチエーションが頭をよぎった。
『…ねぇ白里、漕ぐの、変わろうか?汗びっしょりだよ?』
誰?女性が僕に声をかけている。
『いや。いい。〇〇、君はゆっくり景色を楽しんで…』
誰だ?相手は?肝心な名前が飛んでいる。一体…誰…
「…どうした?ボーッとして…」
いきなり永井が声をかけてきた。
「はっ?!…いや…何でも…」
永井の声によって、デジャウ゛ともいうべきあのシーンは消え去った。…あれは、いつどこで起きた(起きる?)ことなのだろう…
「ボートか…何か思い出したかい?」
永井は僕の視線を辿って言った。
「…僕も、ああいうボートに乗ったことがあるようです。頭の中で…誰かと一緒に乗った様子が浮かんだ…」
「ほぉ…」
「でも、誰かは分からない」
記憶がないって辛いですねと、言葉を結んだ。すると永井は、
「…場合にもよるさ」
意味深な発言をした。
「…?それはどういう?まさか、記憶喪失になりたがる人はいないでしょう」
「…言葉通りさ。場合にもよる。あまりに辛い経験を持っていると、それを消したくもなるって事…」
「…それって誰の…」
「もちろん、なっちゃんさ。彼女は言いたがらないが、一緒に暮らしているんなら、知っておくべきことだ…」
永井の口から奈月さんの過去が語られる。山中湖の天気は、次第に曇り始めてきた…

-次回第2章『追憶の章』第1話『波紋』に続く-
  


Posted by ヤギシリン。 at 01:54Comments(0)